2013年5月23日木曜日

ペルシャの国の旅行の勧め~その2~

テヘランのマンション(この場合日本語のマンションで、決して英語のmansionではないです。地上四階、テヘランの北の端の山の麓のむやみやたらと見晴らしのいい部屋です。)に朝4時に到着、即寝床に入る家族たち。私は軽い頭痛とめまいに悩まされ、眠ることを諦める。 

さて、ここでイランの豆知識。

イランに初めて到着して戸惑うのが、シモのこと。 
トイレなんですが、いつもヘッドのないシャワーのようなものがすぐ便器の横にあり、トイレットペーパーはふかふかで分厚かったりします。間違えても、便器にお尻を拭いたトイレットペーパーは流さないでください。必ずと言っていいほど、詰まります。 

用を足したあと、ホースでお尻を洗い、水を拭く為にトイレットペーパーを使い、トイレットペーパーは備え付けのゴミ箱に捨てます。ホースがない場合は、ジョウロだったりするのですが、これがお国のシモ事情です。最初はそりゃ、抵抗ありましたよ。温度調節がうまくいかなくて、火傷しそうにもなったり。なにせ、大抵使用済みの紙は無造作に蓋のないゴミ箱に捨てられるのだから、誰の目にもつくわけで。最後は皆やってるんだからと、開き直りましたが。 

最初の日は午後(イランの午後は夕方5時に始まる)に、義兄夫婦のお気に入りのデパート(最上階に遊園地がある)へ行き、義兄と旦那は3人の子供達を連れて最上階へ。義姉と私はウインドウショッピングへ。この時にしっかり、どれだけ簡素な服装ができるのかを研究。 

イスラムの女性の格好といえば、黒ずくめの目だけがギョロギョロ見えているものを想像しますが、それはもっと真剣な信者の方々で、ことにシーア派のイラン人女性たちの服装は目に見えて厳しさが和らいでいるのがわかります。 

過去の基本は髪の毛が見えないよう黒っぽい色のスカーフを使い、黒っぽい膝上までのコートをしっかり首までジッパーを閉めて着て、足元は肌が見えないように長めのズボンかジーンズに黒いぺったんこの靴。 

しかし、今年ほとんどの女の子たちがきていたのは、70年代風の盛り髪にかなりカラフルなスカーフをかけるから、前髪はしっかりスカーフの外。コートもお尻のしたギリギリの長さのチュニックになっていたり、襟元もしっかりあいた色とりどりのコートで、キュッと腰もベルトで閉めている。コートのしたはスリムジーンズだったり、足首までのレギングスだったり。靴もコートに合わせた色や飾りのハイヒールでおしゃれに決めている。 
元も目鼻立ちがはっきりしている人種(イラン人は元々ヨーロッパの人種にアラブとインドの血が混ざった人たち)なので、化粧が映える。とにかく、美人だらけ。 

その時気温20度、薄手の膝上丈のコートを羽織ってはいたけど、そこまでピリピリしなくてもいいと自信ができた。後日、そのデパートでバッタリ会った義姉の友人の旦那が、私だけがきちんとスカーフを被ってたよ、と笑いながら言っていたっけ。 

さて、お腹も空いてきて、晩御飯を義母方の兄妹たちが持ってきてくれるから、帰っておいでと言われた時間になったので、デパートの入り口を出ようとしたら、なんだかいい匂い。 

まるで懐かしいベビーカステラのような…はい、そこで目に入ったのが・・・

ばばーん!



「DELIMNJOO」という文字。

ま、まんじゅう?

その場で焼いているのだが、焼いている機械はベビーカステラの焼き台そのまま。早速買って食べて見ることに。




形はトウモロコシの形で、中にカスタードクリームが。おいしい。もみじ饅頭のカスタード味を思い浮かべてもらえば、そのまんまです。いやはや、こんなところに和菓子が。 

ご存知かもしれませんが、日本が高度成長期の頃、イランからたくさんの出稼ぎ労働者を受け入れていたので、その時に工場かどこかで働いていたのか、日本で美味しいと思ったものを持って帰ってきてくれたらしい。10個入りで5000トマン(1ポンドぐらい、140円かな?)。イランの物価で考えると、かなり高いお菓子ですが、私の後ろに行列が… 

これはママン(義母)とババ(義父)にも食わせたいと、2袋購入して帰ってきました。
道中で子供達にみんな食べられちゃいましたが。
とほほ。 

帰宅して、義母の兄妹と挨拶を交わし、晩御飯。大抵9時ぐらいから食べ始めます。普通は昼は大きく、夜は軽く食べるのだけど、今回は、山のように持ってきてもらったケバブを食べ漁る。

うまい。うますぎる。 T_T

クビデ(ビーフミンチ)にジュジ(サフラン味の鳥肉)、叔母手作りのクク.サブジ(ハーブオムレツ)にヨーグルトを添えて。すでにダイエットは何処へやら。 

じゃ、またあしたー、と、翌日は叔母の家にお邪魔することを聞かされ、別れを告げる。 
就寝は子供も大人も一緒に12時ごろ。子供の夜更かし。これは辛かった。眠くなるに連れ、子供達の抑制が効かなくなる。ま、4回目の里帰りなので、義父母も事情を知っており、その日以降は夜の予定はいれないようにしてくれた。走り回る子供達に辟易しての苦肉の策だったのかも。 

つづく。 

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